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青山正さんを救援する関西市民の会

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更新日 2016-07-31 | 作成日 2016-07-31

「証拠ねつ造」野田事件・青山正さんにあたりまえの無罪を! 

1993年4月4日発行パンフレットより

 
 
1993年に発行したパンフレット「証拠ねつ造」の原稿を掲載します。 
文中の表現については当時のままとしています。 

 

第二章 「 有 罪 」

 
 

裁かれるのは誰か

 

《ズサンな一審判決(一九八七年一月二六日)》

 一審は千葉地裁松戸支部で七年間続き、その間四四回の公判が開かれた。第四三回は判決公判の予定であったが、その前から青山さんが否認を始めたため本人尋問に切りかえられ、判決は一か月先に延期となった。

 しかし三好清一裁判長は、青山さんの否認を黙殺して「懲役一二年」の有罪判決を言い渡した(求刑は懲役一五年)。「本来なら無期懲役だが、被告人は心神耗弱(ものごとの是非を判断し、それに従って行動する能力が弱い)者だから減刑する」というものだった。

 弁護側が無実を主張し、多くの争点があって長期化した裁判だったにもかかわらず、判決文は全文一万二千字ほどの簡単なものであった。そこには、検察官の主張を裏づける物的証拠は十分と言えるのか、また自白が大きく変遷したり物証との間に食い違いが生じた原因はどこにあるのかなどといった検証的な姿勢はほとんど見られない。

 物証に関する記述は検察の主張をそのまま繰り返したものに過ぎず、乾電池の購入数や金属粉・油の同一性の検討ではきちんと記録を読むことすらしていないのではないかという疑念を抱かせる。ネーム片についても、遺留品発見の状況は「別段不自然な点はない」、捜査官二人の間の証言の食い違いは「記憶違い」の一言で片づけるなど、およそ真実を探究する姿勢に欠けたものであった。

 そのような姿勢を支えるのが、中田精神鑑定に裏打ちされた、青山さんに対する裁判官の予断に満ちた心証である。編集された跡がはっきりしている取調べ録音テープや再現ビデオを無批判に受け入れて、青山さんの障害に「十分に配慮した取調べ」であり、青山さんは犯行を「ほぼ再現している」と言い、自白についても、冤罪事件での常套句と言っていい「大筋一貫論(細かな変遷はあるが大筋では一貫している)」を展開する。証拠に多くの疑問点が出てくるのは青山さんに障害があるからであり、その障害にもかかわらず何とか犯行を再現している(これは嘘だ!)のは実際にやったからだという論理がまかり通るのなら、いったん起訴された者は、どうあがいても有罪判決から逃れられないことになる。

 一審判決は、検察の論告をそのまま引き写したズサンで偏見に満ちたものだと言えよう。

《法の原則を無視した二審判決(一九八九年九月六日)》

 弁護団の控訴趣意書、それに対する検察官の答弁書、そして五回の公判を経て、東京高裁第九刑事部(内藤丈夫裁判長)は控訴棄却の判決を出した。危ぶまれた通りの早期結審=有罪判決であった。

 二審判決も、「被告人の資質」や「知能程度」を振り回して無理な論理を押し通そうとする点で一審判決と変わりはない。新聞切り抜きの中の子どもの裸体写真(犯行の動機になったと言われるもの)に対する見方は、その典型だと言えよう。判決は、その写真は「通常人にとっては単に微笑を誘うものに過ぎない」が「被告人のように性的関心が児性愛の段階にある(中田鑑定)精神発達遅滞者にとっては、性的刺激となり得ることは、経験則に照らし明らか」だと言う。この「経験則」は、多くの人の日常の経験に基づいているのではなく、裁判官の頭の中だけでねつ造されたものなのである。

 他の所ではそのように「大胆な」判決も、ネーム片に関してはかなり自信を失っている。被害者の遺留品が一日半も発見されなかったのは「何者かが後日そこに投棄したのではないかとの疑いさえも、生じないわけではない」が「納得できないほどの不審はない」と言い、押収した時に定期入れの中を見なかったのは「信じ難い感があることは否定し得ない」、押収してから一〇日間も定期入れの中を調べなかったのも「迂闊といえば迂闊であるが、あり得ないことではない」、保管場所から定期入れを持ってくるのに一〜二時間かかるというのも「不可解といえば不可解である」という具合である。裁判官は「このネーム片はどうもおかしい」と感じながら、そこに踏みとどまる勇気を失ったもののようである。

 そこで判決は「全くあり得ないことではないから実際にあったのだ」という論理に逃げ込まざるを得ない。しかしこれは私たちの常識からも、また「疑わしきは被告人の利益に」という刑事訴訟法の原則からも大きく逸脱している。刑事裁判は、被告人が犯罪を犯したことを検察側が十分に(合理的な疑いをさしはさむ余地なく)証明しているかどうかを問題にするのであって、弁護側には「全くあり得ないこと」を立証する責任などないのである。

 二審判決は、青山さんの障害を利用し、刑事訴訟法の原則を無視してまで一審判決を維持しようとしたのである。